用户:BakaChinatsu/沙盒/祸福无门之碑
祸福无门の碑(かふくむもんのひ)は、兵库県神戸市东滩区住吉本町三丁目3番4号(住吉学园の敷地内)に立地する石碑。1938年(昭和13年)に発生した阪神大水害の记念と后世への训戒として、1939年(昭和14年)12月に住吉村(当时)が、灾害时に付近の山から流出した岩や石などを利用して建立した。
碑の土台上に置かれた岩の表面には、右から左の方向へ“祸福无门”という语が刻まれているため“祸福无门の碑”として知られているが、その建立経纬から単に水害记念碑(すいがいきねんひ)と呼ばれることもある。
背景
[编辑]例年日本の本州南部において、6月末から7月初めは梅雨の季节である。1938年の6月末から7月初めにかけても付近には梅雨前线が停滞しており降雨が続いていた。そのようなところに日本の南の海上にあった热帯低気圧から暖かく湿度の高い空気が梅雨前线に向けて送り込まれたため、梅雨前线が活発化して各地で豪雨となった[1]。この影响で、例えば同年6月末には関东地方で豪雨となり利根川が泛滥するなどした结果、大きな被害が出た[2]。
同年7月に入ると中部地方や関西地方で雨が激しくなり、神戸市でも7月3日から5日の3日间で457mmの雨量を记录したが[1]、これは瀬戸内海式気候に属する神戸としては多い降水量である。その原因としては、活発化した梅雨前线の影响の他、南から来る暖かく湿度の高い空気が六甲山地にぶつかって上升気流を生じたことも重なったことが挙げられる[1]。同期间の六甲山上での降雨量は神戸市と比べて150mm以上も多い616mmを记录していた[3]。六甲山地に降った雨は瀬戸内海の方向、つまり神戸の方向へと流れ出し、神戸付近でも広い范囲で様々な灾害が発生した。
そもそも六甲山地は风化の进んだ花岗岩という土砂崩れの起こりやすい地质である上に、斜度が30度を超える急斜面が至る所に见られる。さらに明治期以降神戸周辺は人口が増えたために、森が切り开かれて六甲山地の斜面が住宅地に変わっていっていた。そして1938年6月から梅雨前线による降雨が続いていたことで土壌中には水分が多かったことも灾いした[1]。これに前述の豪雨が加わり、付近では土砂崩れや水害が各所で発生した。同年7月5日の早朝には1时间に61mmの豪雨が起こり、神戸市内では全ての河川が泛滥し、山の木々や岩を含んだ土石流が神戸の市街地へと押し寄せたのだった[3]。
住吉村
[编辑]祸福无门の碑は、1939年12月に住吉村により建立された[1]。上记のように近邻地域では豪雨による水害や土砂灾害が方々で発生したが、住吉村もその例外ではなく、同村は付近を流れる住吉川などの泛滥、さらに六甲山地からの土石流に袭われた。
碑文には、1938年7月5日午前9时30分、それまでの连日の降雨に加えて、この日の早朝の豪雨によって発生した“山津波”つまり土石流に袭われたという记述が见られ[3]、この灾害により住吉村だけで33名の死者が出た(“水魔は时余にして33の精霊を呑み”)ということも记载されている[3]。
また灾害発生翌日の7月6日に発行された‘东京朝日新闻’には“被害の最も激しかった住吉川流域”と记されている[3]。
祸福无门の碑
[编辑]祸福无门の碑は、高さ约3mの石积みの土台の上に、先述の土砂灾害の时に山から流れ出してきた约30トンの岩を置いた构造をしており、岩の表面には被灾状况を视察した末次信正内务大臣(当时)が挥毫した“祸福无门”の语が刻まれている。土台の高さは住吉川が泛滥して水害になった时の水位が约3mであったことに因み[1]、土台に使用されている石もまた、上记の土石流が付近に运んできたものである[3]。つまり、ひとたび土石流が発生すれば祸福无门の碑に使用されているような岩石が山から流れ出してくるということも警告しているのである。
“祸福无门”の意味は、“悪いことも良いことも特别な门から入ってくるわけではなく人が招くもの。人の心がけで灾いにも幸福にもなり得るのだから日々の行动は熟虑の上に行い、また反省することを怠ってはならない。”というものである。水害を例にすると、山の木々を乱伐して坊主山にすれば水害が起こり、逆に山を水源林として守れば水にも困らず豊かに暮らしていけるなど、祸福の原因は自らの行いにあると自覚して常に反省を怠らずに熟虑の上に行动せよといったことになる[3]。
出典
[编辑]- ^ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 防灾情报新闻(无料版) - No.134 阪神大水害(その1) 记录的な豪雨灾害
- ^ 霞ケ浦の洪水(PDF)
- ^ 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 3.6 祸福无门(かふくむもん)の戒め