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靜岡鐵道 駿遠線
概覽
目前狀況已廢除
起點站起點:大手站日語大手駅 (静岡県)(全線開通時)
終點站終點:新袋井站
技術數據
路線長度64.6公里(40.1英里)(全線開通時)
軌距762毫米(2英尺6英寸
電氣化方式全線非電氣化日語非電化
使用車型參見使用車輛一節
營運資訊
開通營運1913年11月16日 (1913-11-16)(藤相線)
1914年1月12日(中遠線)
廢除年份1970年8月1日 (1970-08-01)
擁有者靜岡鐵道
重要事件
全線開通1948年9月6日

駿遠線(日語:駿遠線すんえんせん)是一條從靜岡縣中部出發,經藤枝市大手站日語大手駅 (静岡県)新藤枝站日語新藤枝駅東海道本線藤枝站前),再從駿河灣西岸,途經御前崎附近,沿遠州灘東北岸行走,最後到達袋井市新袋井站(東海道本線袋井站前),由靜岡鐵道營運的鐵路線。現時已經被廢除。在整條線中,原本分為兩部分,大手站至新藤枝站至地頭方站之間的路段原本被稱為藤相線,池新田站(後來名為濱岡町站)至新袋井站之間則被稱為中遠線。此路線的軌距為762毫米,在規格上是一條輕便鐵路。路線名稱取自駿河國遠江國的首文字。另外,大手站至新藤枝站之間也會被稱為大手線,駿河岡部站至大手站之間也會被稱為岡部線

概要[編輯]

原本靠近藤枝一方的路線是由一間名為藤相鐵道(日語:藤相鉄道とうそうてつどう[1])的公司營運。靠近袋井一方的路線是由一間名為中遠鐵道(日語:中遠鉄道ちゅうえんてつどう[1])的公司營運。在戰時由於國策的關係,兩間公司、靜岡電氣鐵道(即後來的靜鐵靜岡清水線)與其他運輸公司合併成為靜岡鐵道。在戰後的1948年(昭和23年),便把藤相線和中遠線兩條鐵路線的末端連接起來,成為了一條路線。使全長64.6公里,連接大手至新藤枝至新袋井之間的駿遠線,成為了日本最長輕便鐵路

由於整條路線的歷史比較複雜和長久,因此在線上行走的車輛種類較多,主要都是使用原本上述提及兩間鐵路公司的車輛,以及由靜岡鐵道自家工場製造的車輛。後來隨着機動化日語モータリゼーション的發展,加上大井川橋樑老化,需要大量的金錢T以進行修輯作業。因此在全線開通的16年後(即1964年(昭和39年))開始廢除部分路段。在1970年(昭和45年)7月31日全線廢除,翌日8月1日開設代行巴士服務。

路線數據[編輯]

※資料截至駿遠線全線開通時一刻

歷史[編輯]

構想[編輯]

東海道五十三次其中一個宿場町是在藤枝,在明治時代開通的東海道本線中,所設置的藤枝站是在該宿場町之外。另外,當時有一個輕便鐵道「駿遠鐵道」的計劃,從因當時東海道本線而繁榮的燒津起開始南下,途經遠州川崎日語川崎町 (静岡県)相良日語相良町遠州橫須賀日語大須賀町,連接中泉(現時:磐田市)。但是這個計劃對於藤枝來說,由於擔心這樣的話便會失去交通樞紐的地位,因此當務之急是想辦法解決這個議題。

因此,包括藤枝的商人笹野甚四郎日語笹野甚四郎在內,於藤枝町日語藤枝町志太郡內尋找有志人士聚集起來,討論建設輕便鐵道的計劃。為了對抗駿遠鐵道,便計劃成立「藤相鐵道」,從枝出發,向良方向敷設鐵路。在1911年(明治44年)8月,藤相鐵道獲批准敷設鐵路。在同年11月,創立藤相鐵道株式會社,笹野成為第一代社長[2]。在同一時期的中遠南部,當地居民對燒津資本的進出感到危機感。為此,由小笠郡日語小笠郡笠原村笠原村 (靜岡縣)出身的縣會議員芝田庫太郎為中心,在袋井成立了「中遠鐵道」[3]。在1911年(明治44年)10月10日,藤相鐵道的發起人笹野也協助申請敷設特許。在1912年(明治45年)3月9日得到敷設許可。同年8月28日成立中遠鐵道株式會社[4]。藤相鐵道的起點從原本駿遠鐵道計劃的燒津變為藤枝,而中遠鐵道的起點則由磐田變為袋井。

開業和延長[編輯]

藤相鐵道的測量和施工進展順利。另一方面在1911年(明治44年)8月,政府批出了鐵道許可狀[5]予駿遠鐵道。駿遠鐵道當時由於與藤相鐵道進行競爭,同時由於駿遠鐵道內部出現紛爭,使測量工作不順利,結果在1918年(大正7年)5月,該許可失效[6],公司也被解散。

隨後,藤相鐵道第一段開通的區間是連接藤枝站和藤枝市區的「大手線」區間,於1913年(大正2年)啟用。

在離開藤枝站後,路線計劃越過東海道本線,前往大井川方向。渡河預定地點的大井川河口附近,大井川的寬度為約1公里,由於成本原因,較難以快速方法建造橋樑。因此,在大井川右岸(西邊)的大幡至細江區間率先於1915年(大正4年)5月先行啟用。當時乘客需要步行越過大井川。在半年後孤注一擲地收購了富士見橋,當時便在橋上收取過橋費用,同時於橋上「臨時地」開設臺車業務。但是該臺車區間的營運制限較多,例如兩架臺車前往同一方向,兩者之間需要間距約21米或以上的距離。而政府也需要人員在橋上巡邏,以確保臨時橋的接縫是一個安全的狀態。由於該橋只是單線,如果一個方向有數架臺車行走的話,另一方向的臺車至少需要等待30分鐘。當時的限制造成兩邊鐵路線的時間表混亂。在1918年(大正7年),於橋中央部分加設列車交會設備。使在橋上最多同時可讓2輛客車和2輛貨車通過和進行列車交會。

在繼續研究建設大井川橋樑期間,路線繼續向大井川西邊延伸。首先先延伸至遠州川崎町(即後來的榛原町),後來再延伸至相良。在1922年(大正11年),暴雨使富士見橋被沖毀後。在大正未期(1924年(大正13年)),跨越大井川的橋樑正式啟用(但是該橋與路面交通共用)。在1937年(昭和12年)7月9日,鐵路專用橋樑正式啟用。可是由於後述提及經濟衰退使資金短缺,橋面部分使用鋼製,但是橋腳部分還是與過往一樣時代,都是木製。因此在橋上的行走速度限於15km/h(通常情況),在強風時或河水高漲時,速度限制會減至5km/h。當發生惡劣天氣時,該區間更會暫停營運,改由巴士代行。

同一時代,中遠鐵道的新袋井至新橫須賀之間開通,由於途中不需要越過廣寬的河流,因此工程比較順暢。從此,中遠鐵道一度沒有繼續延伸。直至大正末期再延伸至南大坂,同時於新袋井站改善了與國鐵的轉乘通道。踏入昭和時代的1927年(昭和2年),中遠鐵道線延伸至新三俁。自此,戰前的中遠鐵道線全線開通。

藤相鐵道在1926年(大正15年)延伸至地頭方後,兩鐵路線的末端只相距15.3公里。

戰時整合[編輯]

在大正末期起,日本各地開始提供了巴士這個新的交通工具。使只靠蒸氣機車行走的中小型鐵路公司陷入困境。藤相和中遠兩間鐵路公司也不例外,特別是中遠鐵道。因此兩間公司相繼引入汽油列車,以提升行車速度令運輸業績轉好。雖然使用汽油列車使業績好轉,但是在1929年(昭和4年)經歷經濟大蕭條後,兩間公司的業績再度下降。

後來在太平洋戰爭下的1943年(昭和18年),隨着推行戰時統制。藤相、中遠兩間鐵路公司,連同靜岡電氣鐵道、靜岡乘合自動車、靜岡交通自動車一同合併為「靜岡鐵道」。藤相鐵道和中遠鐵道分別變為靜岡鐵道的藤相線和中遠線。

戰後的混亂與駿遠線全線開通[編輯]

在戰爭結束後,藤相線和中遠線沿線的居民開始使用鐵路前往市中心購買貨物。原本這些地區是農業和漁業繁盛的地區,由於食材資源豐富,因此成為了購買食材的好地方。使在戰前所提及的困境似乎是個謊言,兩線的列車常常擁滿了乘客。幸好在戰時沒有因空襲使鐵路設施和車輛受損害,但是出動所有客車和汽油列車的情況下,車輛仍然不足。在該時期,鐵路公司正在對付急增的乘客的時候,並未能對路線上進行投資。對於改軌距和改建大井川橋樑等項目未有取得進展,這對於後來的駿遠線影響深遠。

大約在這個時候,開始構思把兩線連接起來,形成一條「駿遠日語駿遠鐵道」的計劃。兩線的規格由於也是輕便鐵路,加上在戰時,軍隊也有在同一地區使用鐵路。後來在1948年把兩線連接起來,整條路線統一名為「駿遠線」。此外,在舊・藤相鐵道時代,於1925年(大正14年)曾經從大手向東北延伸至駿河岡部(現時:藤枝市岡部町),該區間在營運11年後,於戰時合併前已經廢除。因此駿河岡部至大手和大手至新袋井的區間沒有在同一時期出現。

衰退と終焉[編輯]

戦後の混亂が明け、日本の高度経済成長が始まると同時に、モータリゼーションが鉄道に襲いかかった。特に鉄道の利點である大量・高速輸送の點で欠陥を持つ軽便鉄道は脆く、1950年代後半から1960年代にかけ、次々に姿を消していった。

駿遠線の場合は、戦後に開通した區間の大部分が、沿岸部の砂丘地帯に敷かれた軍用軌道ルートを利用していたせいで既存集落から離れ過ぎて沿線人口が少なかった。また藤枝 - 袋井では遠回りな線形で東海道本線に比較すると遙かに時間がかかり(湯口徹によれば、開業當初5時間以上、その後のスピードアップを経ても3時間半を要したという)、運賃も高くついた。さらに、藤枝側の駿河地域と袋井側の遠州地域はもともと文化・経済圏が異なることから、沿岸部の農漁村相互での交通需要自體が少なかった。

更に1950年代以降、貨物輸送の主流はトラックへ移行し、1959年(昭和34年)に貨物輸送を関連會社の駿遠運送へ引き継ぎ[7]全廃した。また車輌運用を考慮しても全線維持は採算に合わなくなっていったため、1961年(昭和36年)からは沿線人口の少ない、地頭方 - 新三俁間は朝夕のみの運行となり、1964年(昭和39年)には藤枝市街區間の大手線と、ほぼ戦後開通區間と重なる堀野新田 - 新三俁が廃され、駿遠線全通時代は16年間で幕を閉じた。その3年後には利用客の少なかった新袋井 - 新三俁が全廃となり、舊・中遠鉄道の區間は完全に消えた。

相前後して駿遠線では、靜岡市への通勤通學客を抱え、夏場には沿線の靜波海岸など海水浴輸送という目玉もあり、快速列車「さざなみ」の運行も行われていた舊・藤相鉄道區間[注釈 1]向けに、軽便鉄道の新しい形を模索しようと、軽便では異例の大きさと出力を誇る190馬力級のディーゼル機関車・DD501を1965年に自社新造するなどしたが、この機関車も1両のみの製造に留まった。道路の発展によるバス路線の整備、さらに戦後の酷使による老朽化した設備を抱えては、もはや趨勢を押し戻すことのできる狀況ではなくなっていた。

そして架橋から30年余を経た大井川橋樑について、橋腳の老朽化から架け替えを検討しなければならなくなった。しかし時節柄、新しい橋は木製橋腳でなく永久橋として架橋せねばならないことから、費用面に阻まれて架け替えは不可能だった。結局は1968年(昭和43年)に大井川以南を一気に廃止[注釈 2]、殘るはわずか6.3kmとなった[注釈 3]。駿遠線は大井川以西區間からの長距離利用者の運賃で支えられている面が大きかったこと、そして路線規模が極小となったことで存在意義は失われ、遂に1970年(昭和45年)7月31日を限りとして終焉を迎えた。

快速列車の運転[編輯]

駿遠線は路線長が長いこともあり、路線全通の頃から軽便鉄道には珍しく一部の駅を通過する愛稱なしの快速列車が運行されていた。定期列車の快速に加え路線短縮後の1964年(昭和39年)からは、てこ入れとして藤枝 - 大井川間は各駅停車、以遠榛原町までノンストップの海水浴客向けの夏季臨時快速が運行され、「さざなみ」の愛稱がつけられた。これらの快速は1967年(昭和42年)10月に全て廃止されている。

快速列車の運転開始は1956年(昭和31年)11月で気動車を使用し、新藤枝 - 地頭方間で1日6本であった。1958年(昭和33年)10月からは新藤枝 - 新袋井間で全線直通の快速列車の運行が始まり[注釈 4]、上下各1本の直通快速列車の他、下り快速は相良 - 新袋井間に1本(新藤枝 - 相良間は各駅停車)、新藤枝 - 地頭方間に3本が、上り快速は新袋井 - 新三俁間に2本、地頭方 - 新藤枝間に1本(新袋井 - 地頭方間は各駅停車)、相良 - 新藤枝間に1本が運行された。下り直通快速は所要2時間17分、上りの直通快速は所要2時間12分(表定速度27.6km/h)で、後者は駿遠線全線で史上最速の列車だった。しかしこの全線直通快速は、わずか1年ほどで廃止されている。

1960年(昭和35年)には普通列車を追い越す上り快速の運行が始まり、新袋井 - 新三俁間2本、地頭方 - 新藤枝間1本、相良 - 新藤枝間2本が運行され、うち3本で普通列車を追い越すダイヤが組まれていた。また下りの快速は新藤枝 - 地頭方間で4本(うち3本は相良から各駅停車)、新三俁 - 新袋井間で2本が運行された。所用時分は最速の列車で下り新藤枝 - 地頭方間で66分(相良で3分30秒停車)、上り地頭方 - 新藤枝間で64分(表定速度26.2km/h)だった[注釈 5]。しかし2年後には減便に加え普通列車の追い越しもなくなり、1964年(昭和39年)の路線短縮後は新藤枝 - 堀野新田間に朝上り・夕方下り1本、三俁 - 新袋井間では朝上り[注釈 6]1本の運行となった。

夏季臨時快速「さざなみ」は夏季の海水浴シーズンにのみ運行される臨時快速で、気動車2両が數両の客車を挾む長大編成が使用された。駿遠線の気動車の大半は総括制御のできない機械式だったため、各車に運転士が乗務し、警笛を合図にして運転操作を行っていた。またダイヤ上では、1967年(昭和42年)は最初から臨時列車のスジが設定されていた「予定臨」であり、運転日は他の定期列車の時刻変更が行われるなど、當時の國鉄並みの運用がなされていた。

駿遠線ではこれらの快速列車に小型ながらも立派なヘッドマーク[注釈 7]を用意し、専用のサボ(行先の上段に青字で『快速』と表示)も使用していた。またホーム停車中は列車の後端の脇にも「快速」の案內立て看板を掲示しており、このような例も他の軽便鉄道では見られないものであった。

実現されなかったルート[編輯]

袋井駅 - 福田
袋井駅から袋井市舊淺羽町の諸井、長溝、磐田市舊福田町の中野を経て、太田川に橋樑を設けて、福田へ行くルートが計畫されたが、実現されなかった[9]。その後、靜鉄バス靜岡鉄道バス事業の分社化により、現在はしずてつジャストライン)が袋井駅 - 福田間をバス路線として運行したが、1986年(昭和61年) (?) 前後に廃止された。2006年平成18年)4月に、1日3往復程度だが袋井市自主運行バス(メローバス)が袋井駅まで延長したため、磐田市豊浜から袋井駅まで直通で行けるようになった。その後、2011年(平成23年)7月に袋井市自主運行バスが豊浜へ寄らなくなったため、直通で行けなくなった。
駿河岡部駅 - 宇津ノ谷峠 - 靜岡市
岡部線の存在した時代に駿河岡部駅から岡部線をさらに延長し、靜岡市まで接続する案[10]があった。
大井川 - 石部トンネル - 運動場前駅
1950年(昭和25年)頃、改軌(762mm→1067mm)、複線化、電化が予定され、大井川駅の藤枝寄りから分岐して焼津市內を縦斷し、東海道本線の移設により空いていた舊ルート(現石部トンネル)を経て靜岡市に接続する案。用地買収や敷設許可は下りたものの東海道新幹線建設により在來線が同トンネルを使うことになり、実現されなかった[11][12]
上吉田駅 - 遠州川尻間
長期未開業線として吉田村地內(上吉田駅 - 遠州川尻間)の支線があった[13]が、1950年代に『私鉄要覧』等の資料から抹消されている[14]

年表[編輯]

藤相鉄道→靜岡鉄道藤相線[編輯]

藤相鉄道 社紋
  • 1911年(明治44年)
    • 8月28日 藤相軽便鉄道に対し免許狀下付(藤枝-川崎間)[15]
    • 11月15日 藤相鉄道株式會社設立[16][17]
  • 1913年大正2年)11月16日 大手 - 藤枝新(後の新藤枝)間 3.9kmが開業[18]
  • 1914年(大正3年)
    • 4月15日 鉄道免許狀下付(志太郡藤枝町-同郡岡部町間)[19]
    • 9月3日 藤枝新 - 大井川 間 6.3kmが開業[20]
  • 1915年(大正4年)
    • 5月1日 大幡 - 細江 間 6.4kmが開業[21]
    • 9月18日 細江 - 川崎町(後の榛原町)間 1.8kmが開業[22]
    • 9月23日 川崎町を遠州川崎町へ駅名稱変更[23]
    • 11月 大井川 - 大幡 間 が仮開業
  • 1917年(大正6年)2月19日 鉄道免許狀下付(榛原郡川崎町-同郡相良町間)[24]
  • 1918年(大正7年)
    • 6月16日 遠州川崎町 - 相良 間 6.0kmが開業[25]
    • 11月6日 鉄道免許失効(志太郡藤枝町-同郡岡部町間 指定ノ期限內ニ工事竣工セサルタメ)[26]
  • 1922年(大正11年)5月29日 鉄道免許狀下付(榛原郡相良町-小笠郡池新田村間、榛原郡地頭方村-同郡御前崎村間)[27]
  • 1923年(大正12年)2月8日 鉄道免許狀下付(志太郡西益津村-同郡岡部町間)[28]
  • 1924年(大正13年)4月4日 大井川 - 大幡 間 1.6kmが正式に開業[29]
  • 1925年(大正14年)1月16日 駿河岡部 - 大手 間 4.8kmが開業[30]
  • 1926年(大正15年)4月27日 相良 - 地頭方 間 5.9kmが開業[31]
  • 1931年(昭和6年)
    • 9月23日 瓦斯倫併用認可。12月24日実施[17]
    • 10月2日 鉄道免許失効(榛原郡地頭方村-小笠郡池新田村間、榛原郡地頭方村-同郡御前崎村間 指定ノ期限マテニ工事着手セサルタメ)[32]
  • 1935年(昭和10年)5月4日 鉄道免許狀下付(榛原郡吉田村地內)[33]
  • 1936年(昭和11年)5月19日 駿河岡部 - 大手 間 4.8kmを廃止[34]
  • 1943年(昭和18年)5月15日 中遠鉄道、靜岡電気鉄道などと戦時統合して靜岡鉄道藤相線となる

中遠鉄道→靜岡鉄道中遠線[編輯]

中遠鉄道 社紋
  • 1911年(明治44年)10月 中遠鉄道、鉄道敷設(蒸気動力)を申請
  • 1912年(明治45年)
    • 3月9日 中遠鉄道に対し鉄道免許狀下付(磐田郡笠西村-小笠郡大須賀村間)[35]
    • 8月28日 中遠鉄道株式會社設立[36][37]
  • 1914年(大正3年)1月12日 新袋井 - 新橫須賀 間 10.3kmが開業[38]
  • 1922年(大正11年)5月29日 鉄道免許狀下付(小笠郡橫須賀町-同郡池新田村間)[27]
  • 1925年(大正14年)4月7日 新橫須賀 - 南大坂 間 6.0kmが開業[39]
  • 1927年(昭和2年)4月1日 南大坂 - 新三俁 間 1.0kmが開業[40]
  • 1929年(昭和4年)4月5日 ガソリン動力併用認可を取得[37]
  • 1931年(昭和6年)6月25日 鉄道免許失効(小笠郡三俁村-同郡池新田村間 指定ノ期限マテニ工事施工の認可申請セサルタメ)[41]
  • 1943年(昭和18年)5月15日 藤相鉄道、靜岡電気鉄道などが戦時統合して靜岡鉄道中遠線となる
  • 1948年(昭和23年)1月20日 新三俁 - 池新田(後の浜岡町)間 8.2kmが開業

靜岡鉄道駿遠線(全通後)[編輯]

靜岡鉄道 社紋
(1953年制定)
  • 1946年(昭和21年)1月28日 鉄道免許狀下付(榛原郡地頭方村-小笠郡三俁村間)[42]
  • 1948年(昭和23年)9月6日 地頭方 - 池新田 間 7.1kmが開業[43]。大手 - 新藤枝 - 新袋井全通に伴い、藤相線及び中遠線を併せて駿遠線と改稱
  • 1957年 (昭和32年) 4月 國道1號線(現・靜岡県道381號線)との立體交差化のため瀬戸川 - 新藤枝間を付け替え、志太駅を廃止
  • 1959年(昭和34年)6月11日 貨物営業廃止[44]。駿遠運送がトラック輸送で貨物営業を継承[7]
  • 1964年(昭和39年)9月27日 大手 - 新藤枝 間 3.9km及び堀野新田 - 新三俁 間 13.1kmを廃止
  • 1965年(昭和40年) BB型のディーゼル機関車、DD501を新製。駿遠線最後の新製車両となる
  • 1967年(昭和42年)8月28日 新袋井 - 新三俁間 17.4kmを廃止。舊・中遠鉄道區間全廃
  • 1968年(昭和43年)8月22日 大井川 - 堀野新田 間 23.9kmを廃止
  • 1970年(昭和45年)8月1日 新藤枝 - 大井川 間 6.3kmを廃止。靜岡鉄道駿遠線全線廃止

使用車両[編輯]

Template:複數の問題 本節の出典:[45][46]

気動車[編輯]

靜岡鉄道では気動車の型式において、2軸車の片側車軸だけをボギー台車に(駆動輪は固定軸側。これにより保守の簡便さと収容力拡大の両立を図った)した構造の「片ボギー車」に3軸の意の「C」を、一般的なボギー車に4軸の意の「D」を付加している。また自社製造のD14以前の車両は元々はガソリンカーとして製造され、戦時中の代燃裝置搭載を経て第二次世界大戦後にディーゼルエンジンに換裝している。変速機は基本的に機械式だが、自社製造車の一部は液體式だった。キハC1 - キハD9の引き継ぎ車グループ、キハD10 - キハC13(後にキハD形に改造)の転入車グループ、キハD14 - キハD20の自社製造グループの3つに大別される。駿遠線車両の車番は靜岡鉄道合併時には舊・藤相鉄道と舊・中遠鉄道の車両で重複するものがあり(キハ1 - 3)、新たに小型のものから若番(1 - )として車番をつけ直すと共に、番號の頭にキハC・キハDの記號を冠した。

キハC1・C2
中遠鉄道キハ1と2を引き継いだもの。當時勃興しつつあった路線バス対策として投入されたもので、1929年(昭和4年)東京の蒲田にあった個人経営企業・松井自動車工作所(のちに松井車輌製作所に改稱)で製造された[47]。8m級で日本初の片ボギー車であると言われている。木造車體・外裝鋼板張りのいわゆる簡易半鋼製車で、前面3枚窓にダブルルーフのやや古めかしい外観をしている。2両の間ではベンチレーターや保護棒などに違いがある。
キハC3
藤相鉄道キハ4を引き継いだもの。1936年(昭和11年)に加藤車輌製作所で製造された前面2枚窓(ただしガラス不足のため各窓には桟が入り、一方の前面は2枚窓がさらに縦に2分割された4枚窓、もう一方は運転台側が上下2段に分割、客席側は上下2段の下段窓がさらに左右に分割されており、合計5枚窓となっていた)の半鋼製車で、両車端に鮮魚台を持つ。比較的乗客の少ない大手線専用に用意されたため片ボギー車となった。上記のキハC1・C2よりもさらに車體長が1m近く短い7m級車で、定員の少なさから早い時期に予備車となっている。
キハD4
藤相鉄道キハ5を引き継いだもの。1936年に日本車輌で製造された前面2枚窓の9m級半鋼製車。ボギー車ではあるが區間運転用に用意されたため、車體長9m級(しかも車體両端に鮮魚台がついているので車體自體はもっと短い)の小型車となった。前面は2枚窓で、運転台側はさらに縦に2分割された合計3枚窓だった。両端で台車オーバーハングが極端に違うという外見的特徴がある。1965年(昭和40年)にエンジンと鮮魚台を撤去して客車化され、ハ29(2代)となった。
キハD5
中遠鉄道キハ3を引き継いだもの。1935年(昭和10年)に東亜工作所という無名のメーカー(1932年に経営破綻した松井車輌の関係者が攜わったメーカーと見られている)で製造された11m級半鋼製車。台車は珍しい板台枠軸バネ式で車體両端に鮮魚台がついている。外見は當時日本車輌が數多く作っていた標準車に通じるものがあり、屋根も淺く前面3枚窓、側面は大きな2段上昇窓の近代的な外見を持つ。
キハD6 - D8
藤相鉄道キハ1 - 3を引き継いだもの。1931年(昭和6年)に日本車輌で製造された11m級半鋼製車で、初期の半鋼製車らしい小さい側面の1段下降窓、前面の2枚窓にかかる大きな庇、乗降扉の有軌電車ばりの低いステップが特徴。また入線當時は座席がシートピッチの広いボックスシートで、ちょうどこの時期に日本車輌が考案した偏心台車(駆動軸側により大きな荷重がかかるように、心皿の位置をずらしてわざと二つ一組の車軸の荷重バランスを崩した台車)を履いている。
一応同型車だが、各自ベンチレーターやドアの形狀などが異なり、1967年(中遠線廃線前後)にD6とD7でこれらの特徴が逆になっていることや、ナンバー部分だけ塗り直した寫真があることから、TMS(『鉄道模型趣味』)編集部では「この頃にD6とD7で番號振替が行われた可能性」を指摘している[48]ほか、地元(藤枝市田沼町)の人間の証言で塗裝が「キハD6の上部クリーム色は少し濃いめのイエローカラー、キハD7のクリーム塗裝部はほとんどホワイトに近い」色だったのに昭和42年の夏ごろから逆になり、排障器形狀も入れ替わっていた(=番號振替の可能性大)という物が得られている[49]
自社製気動車に混じって1968年(昭和43年)の大井川以南の廃止まで走り続けた。
キハD9
藤相鉄道キハ7を引き継いだもの(なお藤相鉄道にキハ6という車両はなかった)。1941年(昭和16年)に加藤製作所で製造された11m級半鋼製車で、外見は上述のキハD6 - D8とメーカーが違うもののよく似ている。違いはドアの位置と側面窓が2段上昇窓になって大きくなったことくらいであり、遠目からでは區別はつけにくい。
キハD10
元々は立山鉄道(現在の富山地方鉄道立山線の一部)のキハ2として1930年(昭和5年)に日本車輌で製造された10m級車。屋根はシングルルーフで、キハD6 - D9ほど大きくはないが前面には庇がついている。
製造當時は片ボギー車で、同線が1936年(昭和11年)に1067mmに改軌されたために赤穂鉄道へ移籍、同社のカ6となる。1947年(昭和22年)には客車化されハ6となった。
さらに1950年(昭和25年)には、森製作所の手で車內に民生デイゼル工業製エンジンを設置し、さらに1軸動力台車をロッドによる2軸連動の菱枠ボギー台車に交換して、B-2軸配置で外見は気動車のままにディーゼル機関車DB101に改造される(ただし実車表記はカ6のままであったともいう)。強力だが振動の激しい民生2ストロークエンジンを床上に搭載し[注釈 9]床を貫通するシャフトで台車に動力を伝えるという、常識外れの淒まじい構造を持つディーゼル機関車であったが、経済性などの面でディーゼル化の優位性を実証した。
1951年(昭和26年)、國鉄赤穂線開業に伴う赤穂鉄道の路線廃止によって靜岡鉄道に移籍した。しばらくは機関車として使われるが、輸送力増強のため1957年(昭和32年)に袋井工場でエンジンを床下に戻し、撤去されていた座席を再設置するなど気動車への復元と車體を窓2つ分延長する改造を受けた。前面は中央がやや広い3枚窓で庇がついている。
キハD11
1954年(昭和29年)に廃止された鞆鉄道のキハ3。1928年(昭和3年)に松井自動車工作所で製造された、日本初の軽便鉄道用ボギー式ガソリンカー。車體長は10m級、前面は中央がやや広い3枚窓で、車體片側の端に鮮魚台がついている。
製造所が同じキハC1・C2とどことなく似ているが、こちらは1935年(昭和10年)に加藤車輌でダブルルーフ(二重屋根)の上屋根を削り取る改造を受け、かなり薄いシングルルーフになっている。
キハC12
元鞆鉄道のキハ5。1931年(昭和6年)に日本車輌で製造されたシングルルーフ8m級の片ボギー車。前面2枚窓だが元からではなく鞆鉄道時代に改造したもの。また元々は鮮魚台があったらしいが、靜岡鉄道では撤去している。
収容力の小ささと自社製造車の増備によって運用の機會を減らし、キハC13と違ってボギー車化されないまま廃車され、その後の1962年(昭和37年)の寫真では車體が大手工場の物置となっている。
キハC13→キハD13
元鞆鉄道のキハ4。1930年(昭和5年)に日本車輌で製造された9m級車。
片ボギー車として入線し、しばらくはそのまま使われたが1958年(昭和33年)にキハD10同様に、車體を窓2つ分延長してボギー車に改造された。路線短縮後は新袋井側で廃線まで使用されている。
実はキハD10と同時期に同じ設計図から作られた兄弟車で、前面に庇がないことを除けば、同じような車體延長工事を受けたこともあって外見は酷似している。
キハD14 - D20
1959年(昭和34年)から1961年(昭和36年)にかけて自社の大手工場と袋井工場で7両製造された11m級気動車。輸送力増強と機関車牽引列車よりも利便性に優れる気動車の特性を考えて新造された。
前面2枚窓で上半分が緩く後傾したスタイル(いわゆる湘南顔)の両運転台車で、側面窓はバス窓と、同時期に自社の長沼工場で製作した靜岡清水線用の21形電車と共通の意匠を纏っている。外見的に極端な差異はないが、ドア形狀や台車が少しずつ違うほか、初期のキハD14のみ前面裾が連結器付近まで下がっていた(後に袋井側廃止後にD15以後と同様直線狀になった)事[50]、前面の雨樋の処理が途中から変わり、またキハD16からは乗務員室扉が設けられた[51]
メカニズム的にはそれまで同様の機械式変速機と岡村製作所製の液體式変速機の車両(D15・19・20)が混在するが、D15は後にD14などと同様に機械式4段変速に改造されたほか、1968年の大井川 - 堀野新田間廃止時にD16の部品と組み合わされて[注釈 10]。D16(二代目)となった[53]

以上のうちキハD18 - D20までが全線廃止まで走り続けた。 Template:節スタブ

機関車[編輯]

蒸気機関車[編輯]

蒸気機関車はすべてタンク機関車[54]

藤相鉄道[編輯]
形式 大きさ 製造所 製造年 廃車年 新舊名 備考
1號 6.4トンB型 コッペル 1913年(大2)3月 1937年(昭12)11月
2-4號 1935年(昭10)3月/7月
5號 5.75トンB型 バグナル 1914年(大3) 1920年(大9)9月(売卻) ←中遠4號 1915年(大4)5月に中遠鉄道から譲渡[注釈 11]
6號 6トンB型[55] 大日本軌道鉄工部 1917年(大6)2月 1935年(昭10)7月
7號 1918年(大7)11月
8號 6.4トンB型[55] コッペル 1922年(大11)8月 1952年(昭27) →靜岡6號 足廻りをDB603に転用。
9號 1952年(昭26)8月 →靜岡7號 足廻りをDB601に転用。
10號 6.5トンB型 1924年(大13)2月 1952年(昭27) →靜岡10號
11號 →靜岡11號
12號 →靜岡12號 足廻りをDB602に転用。
中遠鉄道[編輯]
形式 大きさ 製造所 製造年 廃車年 新舊名 備考
1號 5.75トンB型 バグナル 1914年(大3) 1952年(昭27)3月31日(解體) →靜岡1號 小型すぎたため、ディーゼル化されず解體。
2號機は黒澤映畫に登場したほか、2011年(平23)にレプリカが製作され[56]袋井市淺羽記念公園にある[57]
2號 →靜岡2號
3號 →靜岡3號
4號 1920年(大9)9月(売卻) →靜岡0/→藤相5號 1915年(大4)5月に藤相鉄道に譲渡。
4號2 7.5トンB型 コッペル 1914年(大3) 1952年(昭27) 頃 →靜岡13/←南越2號
→靜岡13號
南越鉄道の改軌・電化に伴い不要となった物を譲り受けた。
5號 8トンB型 日本車輌 1922年(大11) →靜岡14/←栗原B81
→靜岡14號
栗原鉄道より1941年(昭16)に中古として購入。
靜岡鉄道[編輯]
形式 大きさ 製造所 製造年 廃車年 新舊名 備考
1號 5.75トンB型 バグナル 1914年(大3) 1952年(昭27)3月31日(解體) ←中遠1號 小型すぎたため、ディーゼル化されず解體。
2號機のレプリカが袋井市淺羽記念公園にある。
2號 ←中遠2號
3號 ←中遠3號
6號 6.4トンB型[55] コッペル 1922年(大11)8月 1952年(昭27) ←藤相8號 足廻りをDB603に転用。
7號 1952年(昭26)8月 ←藤相9號 足廻りをDB601に転用。
10號 6.5トンB型 1924年(大13)2月 1952年(昭27) ←藤相10號
11號 ←藤相11號
12號 ←藤相12號 足廻りをDB602に転用。
13號 7.5トンB型 1914年(大3) 1952年(昭27)頃 ←中遠4號2←南越2號 南越鉄道の改軌・電化に伴い不要となった物を譲り受けた。
14號 8トンB型 日本車輌 1922年(大11) ←中遠5號←栗原B81 栗原鉄道より1941年(昭16)に中古として購入。
15號 8トンB型 立山重工業 1948年(昭23) 1954年(昭29)頃 戦時設計。15號機は藤枝市郷土博物館に現存[58]
16號 1952年(昭27)頃
17號 12トンC型 雨宮製作所 1922年(大11) 1951年(昭26)8月(売卻) ←栗原C121 栗原鉄道の改軌・電化に伴い不要となった物を譲り受けた。
18號 1952年(昭27)頃(解體) ←栗原C122

ディーゼル機関車[編輯]

DB601 - DB605・DB607 - DB609
1951年(昭和26年)から1954年(昭和29年)にかけて8両が登場した凸形車體のB型ディーゼル機関車。DB601と602が自社大手工場製、それ以外は袋井工場製である。
蒸気機関車の老朽化とバスの普及から、「蒸気機関車のボイラーなどの上回りを撤去し、台枠や動輪といった下回りを活かしてバスと同じディーゼルエンジンを積んだディーゼル機関車を作ってしまおう」というアイデアで改造された。種車となった蒸気機関車がバラバラな上(DB605に至ってはC型機関車が種車だったため、後にB型に改造されるまではDC105と言う名前だった)、自社工場製で頻繁に改造を繰り返したことから、全長も外見も、さらには重量や牽引力まで同一の車両が存在しない。塗色はDB601の初期のみくすんだスカイブルーで、それ以外は末期の駿遠線カラーともいえる橫須賀色(スカ色)に近いツートンカラーだった。
エンジンや変速機は會社がトラック用の部品を工場に供給し、工場職員たちが現物合わせで仕立てて完成させた車両で、これを採寸して図面を引き、監督官庁への申請書類に設計図として添付した。常識とは正反対の荒っぽい手順である。DB601は改造當初は運転室を端部に配置したL字形車體だったが、その後の改造で従輪を廃して軸配置がB1→Bと変化し、車體も凸形になった。
その手作りの無骨な外見から、鉄道ファンによって「蒙古の戦車」と呼ばれた[59]。エンジンとクラッチは前部に、変速機は後部に裝備し、動力はチェーンで後輪に伝達するシステムだった。変速機は自動車用の物を流用した前進4段後進1段の機械式変速機を搭載していたが、逆転機を持たなかったので、運転台と逆向きへは速度を出せず、終端では蒸気機関車時代からのターンテーブルを使用して転回していた。実用上、一方向にしか走れないため、現場では「イノシシ機関車」とも呼ばれた。
キハD14以降の自社製造気動車の登場で運用の機會を減らしていくが、路線短縮後の新袋井側に殘されたグループは廃線の日まで使用された。
DB606
「蒙古の戦車」唯一の他社からの移籍車両で、元々は1950年(昭和25年)に森製作所ポーター社製C型蒸気機関車を種車に製造した赤穂鉄道DC102。同路線の廃止で駿遠線に移籍してDC106として使われたが、後に大手工場で大改造された際にB型になった。赤穂鉄道時代は逆転機を備えていたはずであるが、晩年まで逆転機を裝備していたかどうかは不明である。なお、前述の自社袋井工場製DB605と車番を振り替えた(実質的には車體も振り替えたといわれる)ことがあり、DB605を名乗っていたことがある。
DD501
1965年(昭和40年)靜岡鉄道袋井工場製(実際は路線短縮のため相良に移した設備で製作)。藤枝側のラッシュ時対策として製造された軽便鉄道では珍しいBB型ディーゼル機関車で、大きさも最大級。出力188馬力のいすずDH100TP型ディーゼルエンジンに新潟コンバータ製DB115型液體変速機(DF115の後継機)を搭載した液體式DLだった。台車は靜岡清水線の舊型電車用の改造とおぼしき物であった。箱型車體で、白地に赤の細帯の塗色という、清水市內線の電車と同じ出で立ちで異彩を放っていた。
また、変わったことに乗員扉は引戸で車體中央側に引くようになっているほか、車體側面の窓ガラスやルーバーは竣工初期はあったものの、晩年は撤去されて吹き抜け狀態で使用されていた[60]
朝の快速列車の牽引など全線廃線時まで使用され、廃車解體後エンジンは漁船に転用された。なお計畫では3両製造の予定だったが、路線短縮の影響もあり増備はされなかった。

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客車[編輯]

駿遠線には、前身時代含め計48両の客車が在籍していた。木造車は引き継ぎ車と他社からの転入車に、鋼製車は転入車と自社製造車に大別される。なお、當線の客車は全てボギー車で2軸単車は藤相鉄道時代の人車客車のみであった。塗色は當初は明るい茶色1色で、昭和30年代に當時の靜岡清水線の電車に準じた橫須賀色に近いツートンカラーとなった。

形式 製造所 舊形式名 車両數
木造車グループ 33両
ハ1 - 4 大日本軌道鉄工部 中遠鉄道ロボ1 - 4 → 靜岡鉄道駿遠線ホハフ1 - 4 4両
ハ5・6 名古屋電車製作所 安濃鉄道ボキ1・2 → 靜岡鉄道中遠線ロボ7・8 → 靜岡鉄道駿遠線ホハフ5・6 2両
ハ7 日本車輌製造 藤相鉄道ケホロハ3 → ホハフ3 → 靜岡鉄道藤相線ホハフ7 1両
ハ8・9 岡部鉄工所 佐世保鉄道ハ7・6 → 國鉄ケコハ486・485 → 靜岡鉄道駿遠線ホハフ8・9 2両
ハ10・11 日本車輌製造 中遠鉄道ロボ5・6 → 靜岡鉄道駿遠線ホハフ10・11 2両
ハ12・13 藤相鉄道ケホハ7・8 → ホハフ7・8 2両
ハ14 - 17 藤相鉄道ケホハ9 - 12 → ホハフ9 - 12 4両
ハ18 - 20 藤相鉄道ケホハ13 - 15 → ホハフ13 - 15 3両
ハ21 石川鉄道ナ2 → 石川鉄道ロ13 → 栃尾鉄道ホハ12 → 靜岡鉄道藤相線ホハオフ21 1両
ハ22 丸岡鉄道2(形式不明)→ 草津鉄道ホハ20 → 靜岡鉄道藤相線ホハオフ22 1両
ハ23 名古屋電車製作所 南越鉄道ロハ1 → 中勢鉄道ロハ8 → 三重交通サ364 1両
ハ24 南越鉄道ロハ5 → 中勢鉄道ロハ9 → 三重交通サ365 1両
ハ25 日本車輌製造 南越鉄道ハ2 → 中勢鉄道ハ5 → 三重交通サ361 1両
ハ26 南越鉄道ハ4 → 中勢鉄道ハ7 → 三重交通サ363 1両
ハ27・28 三重軌道3・4 → 三重交通サ333・334 2両
ハ291・30 仙北鉄道ハ1407・1408 2両
ハ292 藤相鉄道キハ5 → 靜岡鉄道キハD4 1両
ハニ1・2 名古屋電車製作所 中遠鉄道ハニ1・2 → 靜岡鉄道駿遠線ホハニフ1・2 2両
鋼製車グループ 15両
ハ101・ハ102 自社工場 2両
ハ103 - ハ106 4両
ハ107 - ハ111 靜岡鉄道駿遠線ハ108 → ハ112 5両
ハ112 靜岡鉄道駿遠線ハ112 → ハ108 1両
ハ113 - 115 日本車輌製造 草軽電気鉄道ホハ30形 3両

木造車グループ[編輯]

ハ1 - 4
1913年(大正2年)、大日本軌道鉄工部製の8m級木造客車。中遠鉄道での形式「ロボ」は並等ボギー式客車を表す。屋根はシングルルーフ、妻面3枚窓で車體両端にデッキを持つオープンデッキ構造。側面窓は1段下降式だが、ハ2は後の改造で2段上昇式になった。
ハ5・6
1914年(大正3年)、名古屋電車製作所製の小型7m級木造客車。安濃鉄道の運行休止後に中遠線に移籍。
ハ7
1913年(大正2年)、日本車輌製の9m級木造客車。オープンデッキのボギー車[61]で藤相鉄道開業時に用意された2・3等合造車3両のうちの1両。後に全室3等化されホハフ3となり、靜岡鉄道に引き継がれた。
ハ8・9
1922年(大正11年)、岡部鉄工所製の9m級木造客車。転入後に當時は別路線だった藤相線と中遠線に1両ずつ配備された。両端に奧行きの広いデッキを持ち、後年の改造でハ8は貫通扉を完全に埋めて非貫通の前面3枚窓(さらに各窓が縦2分割されている)となり、ハ9の前面は獨特の観音開きの貫通扉が開閉できないよう固定化されながらも殘り、橫2分割された前面窓の形狀と共に獨特な車両となった。
ハ10・11
1913年(大正2年)、日本車輌製の9m級木造客車。ロボ1 - 4と異なりモニタールーフを採用していた。
ハ12・13
1913年(大正2年)、日本車輌製の9m級木造客車で、藤相鉄道が開業時に用意したケホハ4 - 8のうちの2両。大型で収容力があったことから昭和初期のガソリンカー導入によって蒸機と客車が淘汰された後も生き殘り、靜岡鉄道に引き継がれた。屋根はシングルルーフで、後の改造でハ12は車體を一部鋼製化し、前面窓が3→2枚、側面窓が12→8枚(同時に2段→1段上昇窓化の上窓幅を拡大)と変化している。
ハ14 - 17
1915年(大正4年)の延長開業時に増備された、日本車輌製の9m級木造客車[62]。後の改造でハ14・15はシングルルーフ、ハ16・17はとても淺いダブルルーフと屋根の形狀が変化した。
ハ18 - 20
1915年(大正4年)の延長開業時に増備された、日本車輌製の9m級木造客車。屋根はとても淺いダブルルーフで、後の改造でハ18・20は車體を一部鋼製化し、前面窓が3→2枚、側面窓が10→8枚(同時に2段→1段上昇窓化の上窓幅を拡大)と変化している(上記のハ12と同じ)ほか一方の前面窓がHゴム支持の1段窓になっている。
ハ21 - 30
これらはいずれも他社からの転入車で來歴は実に多様である(上表參照)。車體長は8 - 9m級、中でもハ23 - 28は、三重交通では電車の付隨車として使用されたこともある。またハ29(2代)は、キハD4を1965年(昭和40年)に客車化したものである。
ハニ1・2
1914年(大正3年)、名古屋電車製作所製の木造荷物合造車で、9m級で荷重は2t。デッキの出入り口の上辺は弧を描いており、荷物室側の妻面は窓なしで凹凸も一切ないのっぺらぼうのような獨特の外見だった。同型車ながら荷物室の扉はハニ1が両開き、ハニ2が片開きという外観上の違いがあった。

鋼製車グループ[編輯]

ハ101 - 112
1956年(昭和31年) - 1962年(昭和37年)にかけて自社の大手工場・袋井工場で作られた10m級客車。それ以前はオープンデッキ車ばかりだった駿遠線の客車において、昭和30年代にも入って出現したこの車両が初めての客用扉つきの車両だったというのが、同線の設備面での立ち後れをある意味象徴していたと言えよう。なお室內の蛍光燈の電源用に車軸発電機を搭載している。特に初期の車両は、台枠は廃車した貨車の物の切り継ぎ、台車も貨車や靜岡市內線の電車の物を流用するなどしており、このため台車の外観や車輪徑などが各車両ごとに微妙に異なっている。
ハ101・102
1次車。前年に登場した三重交通サ150形電車によく似た箱形切妻のスタイルだが、かなり幕板部が広い。
ハ103 - 106
2次(1956年(昭和31年))・3次(1957年(昭和32年))増備車。1次増備車に比べ屋根が深くなって幕板部が狹くなった。
ハ107 - 108
4次(1957年(昭和32年))増備車。車體形狀が一新され、やや丸みを帯びた車體形狀に上段Hゴム固定のバス窓を採用、ウィンドウヘッダーのないノーヘッダーになるなど一気に近代的なスタイルへと変化した。妻面は緩い丸妻になり、屋根が張り上げ屋根化され、またラッシュ時の車掌の居場所を確保するため車內の一角に車掌台を設置した。なお、ハ108は1968年(昭和43年)ごろにハ112と車番を振り替えている。
ハ109 - 111
5次(1958年(昭和33年))増備車。4次増備車の特徴に加え、ノーシルノーヘッダー化されてより近代的なスタイルになっている。
ハ112
6次(1962年(昭和37年))増備車。4・5次増備車で丸妻だった妻面は切妻に戻り、駿遠線車両の貫通化計畫を見越して貫通扉を設けているなど、さらに近代的なスタイルになって登場した。新製當初は新藤枝側で使用されたが、大井川を渡る際の貫通扉からの隙間風が問題になったことから、新袋井側への転屬に際して1968年(昭和43年)ごろにハ108と車番を振り替えている。新袋井側の廃止後は磐田市交通公園に譲渡されたが、老朽化により解體された[63]
ハ110・111・108→112と下記のハ113 - 115は駿遠線最後の日まで走り続けた。
ハ113 - 115
草軽電気鉄道から購入した半鋼製ボギー車ホハ30形[58]で、4両中3両を購入し、1963年(昭和38年)12月に自社工場で改修した。その際には新規設計申請を行い、當局の認可を得て施工した。このため中古車の廃車體を購入したものではあるが、事実上の新車といえる。これらのうち2両は大手工場で、1両は袋井工場で竣工している。妻面や側面戸袋窓の一部がHゴム支持となり、元は同一車體でありながら3両とも微妙に異なる外観となった。妻面の貫通扉は、外観は殘っていたものの固定されていて開閉はできなかった。車內も一新され、特徴的だったセミクロスシートはロングシート化され、台車も自家製のものに履き替えられた。また塗色も草軽時代の栗色一色から、末期の駿遠線カラーともいえる橫須賀色に近いツートンカラーに変更されている。

人車客車[編輯]

人車客車(形式不明、1 - 6)
藤相鉄道時代、大井川區間の人車軌道で使用された手押し式人車客車で6両あった。台枠も含め木造の3m級・自重1t・定員12名の2軸車で妻面に出入り口を持つ標準的な人車客車スタイル、屋根はシングルルーフ、窓は片側5枚で、車側ブレーキ(足踏み式)を備えていた。運行は大井川前後の勾配區間は車夫3 - 4人で押し、橋上の平坦部分は1 - 2人で押していた。

貨車[編輯]

貨車は合計55両が在籍していた。合併前から貨物輸送が盛んだったが、戦後トラック輸送が発達してくると、國鉄貨車から軽便貨車への積み換えの手間と輸送力の低さから需要が減少、1959年(昭和34年)に貨物輸送を全廃している。なお、藤相鉄道時代の大井川區間では、車夫が貨車を1両ずつ押して渡河したという。この區間では1915年(大正4年)に中遠鉄道から譲渡された5號蒸気機関車を使用する構想もあったが、重量の問題で実現しなかった。

有蓋貨車[編輯]

ワフ1形(ケホワフ1 - 8)日本車輌製:8両
車端片側に庇とデッキを持つ前後非対稱の珍しい構造の軽便鉄道用小型木造貨車で、1913年(大正2年)に藤相鉄道にケホワフ1形として5両、中遠鉄道に3両(形式不明)が製造された。ケホワフという形式は「軽便鉄道用ボギー式有蓋貨車で手動ブレーキつき」の意味。
ワ6形(ケホワ6 - 26)日本車輌製:21両
藤相鉄道用に増備されたボギー式有蓋貨車で、1915年(大正4年) - 1916年(大正5年)に16両、1923年(大正12年)に5両が製造された。車體寸法はケホワフ1形とほぼ同一だがデッキはなく、完全な有蓋車構造になった。またブレーキは側面踏式のみで手動ブレーキはない。貨物輸送全廃まで使用され、廃車後は車體が倉庫などに転用された。
ホニユフ1形(ホニユフ1・2)日本車輌製:2両
1914年(大正3年)に藤相鉄道が用意した木造ボギー式郵便手荷物緩急車。藤相鉄道時代は車籍上は客車だった。構造はケホワフ1形に車掌室兼郵便仕分台を設置したもので、寸法的にも外観的にも大きな差異はなく、共通で使用されたと思われる。寫真などの記録が非常に少ない謎の形式で、1934年(昭和9年)に1両が廃車され、もう1両は靜岡鉄道合併後に貨車に編入された。

無蓋貨車[編輯]

トフ1形(ケホトフ1 - 6)日本車輌製:6両
軽便用木造ボギー式無蓋貨車で、1913年(大正2年)に藤相鉄道に3両、中遠鉄道に3両の同形車が製造された。ケホトフという形式は「軽便鉄道用ボギー式無蓋貨車で手動ブレーキつき」の意味で、車體寸法は下記のケホト4形とほぼ同一。
ト4形(ケホト1 - 8、9 - 13)日本車輌製:13両
藤相鉄道で1915年(大正4年) - 1916年(大正5年)に8両増備された、ケホトフ1形と同形のボギー式無蓋貨車で靜岡鉄道合併後にト(無蓋車)に改稱された。ブレーキは側面踏式のみで手動ブレーキはない。さらに1924年(大正13年)にも5両(ケホト9 - 13)が増備されたが、これらはホイールベースが異なっており、別形式の可能性もある。
チフ1形(チフ3 - 4)製造所不明:2両?
ボギー式無蓋貨車。側板のないいわゆるフラットカーで、手動ブレーキを裝備していた。貨物輸送の盛んな時期には重寶され、その後工事用や保線用にも使用された。
チ1形(チ1 - 2?)製造所不明:2両?
チフ1形と同じフラットカーで、ト4形同様ブレーキは側面踏式のみで手動ブレーキはない。これらの両數や製造所、出自(トフから改造された?)など詳細は不明。

車両數の推移[編輯]

年度 藤相鉄道 中遠鉄道
蒸気機関車 內燃動車 客車 貨車 蒸気機関車 內燃動車 客車 貨車
有蓋 無蓋 有蓋 無蓋
1913 4 8 5 3
1914 4 8 5 3 4 6 6 3
1915 5 14 14 5 3 6 6 3
1916 5 14 19 5 3 6 6 3
1917 6 14 19 5 3 6 6 3
1918 7 14 22 7 3 6 6 3
1919 7 14 22 7 3 6 6 3
1920 6 14 22 7 3 6 6 3
1921 6 14 22 7 3 6 6 3
1922 6 14 19 10 3 6 6 3
1923 6 14 19 10 3 6 6 3
1924 6 14 24 10 3 6 6 3
1925 11 17 24 13 4 8 6 7
1926 11 17 24 15 4 8 6 7
1927 11 17 24 15 4 8 6 7
1928 11 17 24 15 4 8 6 7
1929 11 17 24 15 4 2 8 6 7
1930 11 17 24 15 4 2 8 6 7
1931 11 3 17 24 15 4 2 8 6 9
1932 11 3 17 24 15 4 2 8 6 9
1933 11 3 17 24 15 4 2 8 6 9
1934 11 3 16 24 15 4 2 8 6 9
1935 6 3 13 22 13 4 3 8 6 9
1936 6 4 12 22 13 4 3 8 6 9
1937 5 5 11 22 13 4 3 8 6 9
  • 鉄道院年報、鉄道院鉄道統計資料、鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料、鉄道統計各年度版
靜岡鉄道
年度 蒸気機関車 內燃機関車 內燃動車 客車 貨車
有蓋 無蓋
1947 10 7 20 22 27
1950 12 1 10 30 29 26
1954 1 9 10 30 29 27
1957 0 9 13 33 20 17
1969 1 3 6 0 0
  • 高井薫平『軽便追想』ネコパブリッシング、1997年、213頁

駅一覧[編輯]

駅名 ふりがな 開業日 廃止日 開業時
の所屬
備考
駿河岡部駅 するがおかべ 1925年1月16日 1936年5月19日 藤相鉄道 (岡部線)
橫內駅 よこうち
八幡橋駅 やはたばし[64] 舊稱を上當間(かみとうま)とする資料があるが開業時の官報[30]及び『停車場一覧』「大正15年版」「昭和2年版」「昭和9年版」のいずれも八幡橋であり詳細不明
水守駅 みずもり
農學校前駅 のうがっこうまえ
大手駅 おおて 1913年11月16日 1964年9月27日 藤相鉄道 (大手線)
慶全寺前駅 けいぜんじまえ
藤枝本町駅 ふじえだほんまち 藤枝市市政施行記念で1956年1月1日に岡出山(おかでやま)より改稱[65]
瀬戸川駅 せとがわ
志太駅 しだ 不明
青木村駅 あおきむら 1916年1月16日[66]
新藤枝駅 しんふじえだ 1970年8月1日 藤枝市市政施行記念で1956年1月1日に藤枝新(ふじえだしん)より改稱[65]
高洲駅 たかす 1914年9月3日 藤相鉄道
大洲駅 おおす
上新田駅 かみしんでん
相川駅 あいかわ 1924年4月4日[67] 駿遠鉄道との接続駅と想定された。後に靜岡清水線との接続構想における分岐駅
大井川駅 おおいがわ 1970年8月1日
大幡駅 おおはた 1915年5月1日 1924年4月4日[67]
遠州神戸駅 えんしゅうかんど 1968年8月22日 吉田町に合併したため1957年2月1日に神戸村(かんどむら)より改稱[65]
上吉田駅 かみよしだ
下吉田駅 しもよしだ 不明[注釈 12]
根松駅 こんまつ 1968年8月22日
細江駅 ほそえ
靜波駅 しずなみ 1934年10月1日[68] 既設線に新設
榛原町駅 はいばらちょう 1915年9月18日 開業時 川崎町、1915年9月23日 遠州川崎町に改稱。1955年3月28日、合併による町名変更のため榛原町に改稱[65]
片浜駅 かたはま 1918年6月16日
太田浜駅 おおたはま
相良駅 さがら
新相良駅 しんさがら 1926年4月27日 1955年頃、相良新(さがらしん)より改稱[65]
波津駅 はづ
須々木駅 すすき
落居駅 おちい
地頭方駅 じとうがた
(ぢとうがた)
[注釈 13]
堀野新田駅 ほりのしんでん 1948年9月6日 靜岡鉄道
玄保駅 げんぼ 1964年9月27日
遠州佐倉駅 えんしゅうさくら
桜ヶ池駅 さくらがいけ
浜岡町駅 はまおかちょう 1948年1月20日 合併による町名変更のため1955年4月1日に池新田(いけしんでん)より改稱[65]
塩原新田駅 しおばらしんでん
合戸駅 ごうど
千浜駅 ちはま
國安海岸駅 くにやすかいがん 不明 不明 海水浴場の臨時乗降場
西千浜駅 にしちはま 1948年1月20日 1964年9月27日
新三俁駅 しんみつまた 1927年4月1日 1967年8月28日 中遠鉄道
南大坂駅 みなみおおさか 1925年4月7日
谷口駅 やぐち 1925年12月1日[68] 既設線に新設
野賀駅 のが 1925年4月7日
野中駅 のなか
河原町駅 かわらまち
新橫須賀駅 しんよこすか 1914年1月12日
七軒町駅 しちけんちょう
新川西駅 しんかわにし 1916年5月1日[74] 不明 既設線に新設(貨物駅)
石津駅 いしづ 1915年5月11日[75] 1967年8月28日 既設線に新設
新三輪駅 しんみわ 1914年1月12日
新岡崎駅 しんおかざき
五十岡駅 いごおか 1915年5月11日[75] 既設線に新設
淺名駅 あさな 1914年1月12日
芝駅 しば
諸井駅 もろい
柳原駅 やなぎはら
袋井駅 ふくろい 開業時新袋井、資料により袋井→社袋井→新袋井となっているが開業時の官報[38]及び『停車場一覧』「大正15年版」「昭和2年版」「昭和9年版」のいずれも新袋井(しんふくろい)であり詳細不明。
  • 靜岡鉄道成立前に廃止となった駅:駿河岡部、橫內、八幡橋、水守、農學校前、志太、青木村、相川、大幡

輸送実績[編輯]

年度 1948年 1949年 1950年 1955年 1960年 1965年 1967年 1970年
旅客輸送密度(人/日) 1,903 1,533 1,355 1,814 1,877 2,031 2,835 2,926
  • 鉄道統計年報、地方鉄道軌道統計年報、私鉄統計年報各年度版

接続路線[編輯]

かつて駿遠線が通っていた自治體[編輯]

2009年現在の自治體名。合併などもあったため、運行當時の通過自治體名とは必ずしも一致しない。

藤枝市焼津市榛原郡吉田町牧之原市御前崎市掛川市袋井市

廃線後の狀況[編輯]

thumb|right|280px|落居駅跡。路盤は自転行車線として転用されている。 thumb|right|280px|ホームが殘る五十岡駅跡。ミニ公園として整備されている。

  • 舊藤相鉄道區間の路盤跡の多くは、靜岡県道375號靜岡御前崎自転行車線線の一部として転用されている。
  • 新藤枝駅構內跡地は靜鉄バスバス乗り場・待機所と市営駐車場になったが、2016年の區畫整理によってどちらも移設された[76][77]。また、平成に入ってから靜鉄不動産のアパートやマンションが相次いで建てられた[78]
  • 國鉄との跨線橋の築堤は廃線後に取り壊され、現在はサンライフ藤枝の駐車場となっているが、新藤枝駅から跨線橋へ向かうカーブはほぼそのままの形で殘っている。
  • 大井川に架かっていた橋の跡は、藤枝寄りと相良寄り雙方に橋台が殘っている。また木製橋腳の殘骸と、道路併用橋の頃の富士見橋の橋腳の基部が國道150號線富士見橋から川の中に転々と殘っているのを見ることができる。大井川両岸が痕跡が比較的多く確認できる。
  • 枕木やコンクリートパイル橋腳を転用した橋は各地で見られたが、河川改修などによって多くが姿を消した。現在は湯日川に架かる山崎自転行車線橋で唯一見られる。
  • 駿遠線で唯一のトンネルである小堤山隧道は、1999年(平成11年)に補修工事が行われた。
  • 舊中遠鉄道區間については、袋井駅からしばらくは県道の拡幅用地とされている。一部の區間は道路改良や區畫整理のために廃線跡が途切れている箇所もあるが、ほぼ當時の廃線跡を辿ることができる。
  • 新袋井駅構內跡地は駐車場となり、往時をしのばせる。かつては、袋井工場に隣接していたコンクリート造りの倉庫(駿遠運送)があったが解體され、葬祭會館の敷地となっている。駅から柳原駅跡へ向かうカーブはほぼそのままの形で殘っている。
  • 新袋井駅から柳原駅間(現袋井市高尾)にある、東海道新幹線が駿遠線と立體交差した架道橋(現靜岡県道41號袋井大須賀線)には「駿遠線架道橋」と名前が付けられている[注釈 14](歩道の位置が廃線跡)。1964年10月1日に開通した新幹線は、1967年8月28日に舊・中遠鉄道區間が廃止するまで駿遠線とすれ違う姿も見られた。新幹線との立體交差は藤枝市高洲にもあった。
  • 淺羽町區域では、袋井市淺羽支所付近まで自転行車線として整備されている。ところどころに、廃線跡であることを示すプレートが埋め込まれている。
  • 淺羽支所より先は、同じく自転行車線として整備されているが、こちらはただアスファルト舗裝しただけとなっている。
  • 淺羽北コミュニティセンター地區では、淺羽北地區まちづくりを考える會が開催され、同市軽便道の利用者増加に向けて淺羽ロマンス街道會が活動を行っている。
  • 五十岡駅、石津駅のプラットホームが殘っている。近年まで新三輪駅のホームも殘っていたようだが、堤防改修時に撤去された模様である。
  • 駅名標を模したモニュメントが建っている駅跡も多い。

保存車両[編輯]

藤枝市郷土博物館の敷地內に保存されているB-15。柵で囲われ、乗り込めないようになっている。(2013年9月26日撮影)

唯一B15形蒸気機関車1948年立山重工業製)が保存されている。廃線後に靜岡市駿府公園內の靜岡市立児童會館內に展示されていたが、改裝に伴い靜岡鉄道長沼駅構內で保管ののち、整備の上で靜岡県藤枝市にある藤枝市郷土博物館に寄贈され、保存展示されている。同館內には藤相鉄道にまつわる資料も展示されている。

一部の客車は保存や再利用されたが、上屋もなく野ざらしであったため、老朽化によりすべて解體されている。

保存客車一覧(いずれも現存せず)
形式 場所 廃車年 備考 出典
ハ20 狐ヶ崎ヤングランド 不明 おゝいがわ」の駅名標も展示。 [79]
ハ1・ハ8 相良海水浴場 1964年12月 車體のみ。バンガローとして使用。 [53][80]
ハ21・ハ25 不明
ハ24 相良海水浴場入口バス停留所付近 1968年8月 車體のみ。
ハ19 相良中學校 校庭 さがら」の駅名標も展示。
ハ23 吉田中學校 中庭 えんしゅうかんど」と「かみよしだ」の駅名標、腕木式訊號機も展示。大井川以南廃止2日後の1968年8月23日に搬入・設置された[81]
ハ112 磐田市交通公園 1967年8月 1980年頃までは現存していた。 [63]

駿遠線が登場する作品[編輯]

映畫[編輯]

thumb|中遠鉄道2號機関車のレプリカ(袋井市淺羽記念公園、2011年12月) 1943年(昭和18年)3月25日に公開された黒澤明の監督デビュー作『姿三四郎』のラストシーンは、中遠鉄道で撮影され[82]、裝飾された2號機や客車、腕木式訊號機が登場している。客車內での黒澤以下スタッフが乗客に扮して出演したが、試寫を見た森岩雄東寶映畫重役)に「ふざけ過ぎる!」とたしなめられて、カットされたという逸話がある[83]。同鉄道は同年5月15日に合併して靜岡鉄道に改稱しているので、映畫は中遠鉄道時代を記録した貴重な映像となった。

これを受けてか、2011年(平成23年)に袋井市が淺羽記念公園を整備した際[57]、機関車レプリカには2號機[56]が選ばれた。

このほか、1941年(昭和16年)6月10日公開の古川ロッパ原作・主演の『歌へば天國[84]』には野中駅(中遠鉄道)、1946年(昭和21年)の日本映畫社製作の『日本ニュース[85]』には買い出し列車を牽くコッペル機(靜岡鉄道藤相線)が登場している。

文學[編輯]

藤枝市出身の藤枝靜男小川國夫の作品には「軽便鉄道」として何回か登場している。

腳註[編輯]

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注釈[編輯]

出典[編輯]

  1. ^ 1.0 1.1 阿形 (2005), p. 1
  2. ^ 靜岡新聞社編《今は昔 しずおか懐かし鉄道》p60
  3. ^ 靜岡新聞社編《今は昔 しずおか懐かし鉄道》p.75
  4. ^ 海野實《静岡県の鉄道 今と昔》p.197-198
  5. ^ 「軽便鉄道免許狀下付」《官報》1911年8月25日(國立國會圖書館數碼化收藏)
  6. ^ 「軽便鉄道免許失効」《官報》1918年5月18日(國立國會圖書館數碼化收藏)
  7. ^ 7.0 7.1 會社概要」. 駿遠運送株式會社.
  8. ^ 寺尾賢次・八木洋行『寫真集 焼津・藤枝いまむかし』靜岡郷土出版社、1988年5月15日、184-187頁
  9. ^ 福田町教育委員會『年中行事と昔ばなし』p72
  10. ^ 『靜岡県鉄道軌道史』p. 255
  11. ^ 駿遠線物語―巨大軽便の橫顔』46頁を參照。
  12. ^ 『靜岡県鉄道軌道史』pp. 391-392[注釈 8]
  13. ^ 『地方鉄道及軌道一覧. 昭和18年4月1日現在』(國立國會図書館デジタルコレクション)
  14. ^ 森口誠之『鉄道未成線を歩く〈私鉄編〉』JTB、2001年、p.182
  15. ^ 「軽便鉄道免許狀下付」『官報』1911年9月1日(國立國會図書館デジタルコレクション)
  16. ^ 『日本全國諸會社役員録. 第20回』(國立國會図書館デジタルコレクション)
  17. ^ 17.0 17.1 『地方鉄道及軌道一覧 : 昭和10年4月1日現在』(國立國會図書館デジタルコレクション)
  18. ^ 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1913年11月21日(國立國會図書館デジタルコレクション)
  19. ^ 「軽便鉄道免許狀下付」『官報』1914年4月17日(國立國會図書館デジタルコレクション)
  20. ^ 「軽便鉄道運輸開始及哩程異動」『官報』1914年9月10日(國立國會図書館デジタルコレクション)
  21. ^ 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1915年5月4日(國立國會図書館デジタルコレクション)
  22. ^ 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1915年9月29日(國立國會図書館デジタルコレクション)
  23. ^ 「軽便鉄道停車場名稱変更」『官報』1915年10月2日(國立國會図書館デジタルコレクション)
  24. ^ 「軽便鉄道免許狀下付」『官報』1917年2月21日(國立國會図書館デジタルコレクション)
  25. ^ 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1918年6月19日(國立國會図書館デジタルコレクション)
  26. ^ 「軽便鉄道免許失効」『官報』1918年11月6日(國立國會図書館デジタルコレクション)
  27. ^ 27.0 27.1 「鉄道免許狀下付」『官報』1922年5月31日(國立國會図書館デジタルコレクション)
  28. ^ 「鉄道免許狀下付」『官報』1923年2月10日(國立國會図書館デジタルコレクション)
  29. ^ 「地方鉄道運輸開始駅廃止並営業哩程異動」『官報』1924年4月10日(國立國會図書館デジタルコレクション)
  30. ^ 30.0 30.1 「地方鉄道運輸開始」『官報』1925年1月22日(國立國會図書館デジタルコレクション)
  31. ^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1926年5月4日(國立國會図書館デジタルコレクション)
  32. ^ 「鉄道免許失効」『官報』1931年10月2日(國立國會図書館デジタルコレクション)
  33. ^ 「鉄道免許狀下付」『官報』1935年5月7日(國立國會図書館デジタルコレクション)
  34. ^ 「鉄道営業廃止」『官報』1936年6月25日(國立國會図書館デジタルコレクション)
  35. ^ 「軽便鉄道免許狀下付」『官報』1912年3月14日(國立國會図書館デジタルコレクション)
  36. ^ 『日本全國諸會社役員録. 第21回』(國立國會図書館デジタルコレクション)
  37. ^ 37.0 37.1 『地方鉄道及軌道一覧 : 昭和10年4月1日現在』(國立國會図書館デジタルコレクション)
  38. ^ 38.0 38.1 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1914年1月27日(國立國會図書館デジタルコレクション)
  39. ^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1925年4月14日(國立國會図書館デジタルコレクション)
  40. ^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1927年4月9日(國立國會図書館デジタルコレクション)
  41. ^ 「鉄道免許失効」『官報』1931年6月25日(國立國會図書館デジタルコレクション)
  42. ^ 「鉄道免許狀下付」『官報』1946年2月18日(國立國會図書館デジタルコレクション)
  43. ^ 今尾 (2008)
  44. ^ 湯口徹「蒙古の戦車」『鉄道ファン』No.245、93頁
  45. ^ むーさんの鉄道風景 N氏の資料室 靜岡鉄道駿遠線車両一覧表Template:出典無効
  46. ^ むーさんの鉄道風景 N氏の資料室 駿遠線全車両ガイド その壱Template:出典無効
  47. ^ 松井車輛製作所 広告」『地方鉄道軌道営業年鑑』1929年(國立國會図書館デジタルコレクション)
  48. ^ 軽便探訪』p.52、「靜岡鉄道駿遠線 その6 キハD6-8」解説文
  49. ^ 機芸出版社鉄道模型趣味』No.596、1995年3月號、p.105「記憶に殘る靜岡鉄道駿遠線の車両」
  50. ^ 軽便探訪』p.56-57、「靜岡鉄道駿遠線 その8 キハD14・15」
  51. ^ 軽便探訪』p.58、「靜岡鉄道駿遠線 その9 キハD17-20」解説文
  52. ^ 軽便探訪』p.77、堤一郎1968年12月撮影・寫真1
  53. ^ 53.0 53.1 軽便探訪』p.76-77、堤一郎「『軽便探訪・靜岡鉄道駿遠線』を読んで」
  54. ^ 臼井茂信「軽便機関車誌: 靜岡鉄道駿遠線」『鉄道ファン』(No.246、1981年10月、84-89頁/No.247、1981年11月、92-99頁/No.254、1982年6月、111頁)
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  58. ^ 58.0 58.1 藤枝市 (1994), pp. 4,5
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  60. ^ 軽便探訪』p.48、新井清彥撮影寫真並びTMS編集部解説。
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  63. ^ 63.0 63.1 丸田祥三S2000171/沙盒於Twitter.
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  68. ^ 68.0 68.1 『鉄道停車場一覧 : 昭和2年版』(國立國會図書館デジタルコレクション)
  69. ^ 『靜岡県鉄道寫真集 懐かしのアルバム』山本義彥、郷土出版社、1993年、ISBN 4-87665-047-0、p.140左上の寫真。
  70. ^ 軽便探訪』p.38、長門克巳 1968年7月撮影・寫真1(堀野新田の駅名標)
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  72. ^ 阿形 (2005), p. 109 及び 口絵p. 4
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  74. ^ 「軽便鉄道貨物停留場設置」『官報』1916年5月11日(國立國會図書館デジタルコレクション)
  75. ^ 75.0 75.1 「軽便鉄道停留場設置」『官報』1915年5月29日(國立國會図書館デジタルコレクション)
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  77. ^ FUJIEDA mikine(フジエダ ミキネ)事業誌」. まちづくり藤枝 (2018年2月).
  78. ^ 靜岡鉄道ゆかりの地「藤枝」,存於互聯網檔案館
  79. ^ 靜鉄電車 昭和50年頃の風景: その2 (桜橋~狐ヶ崎ヤングランド前)」. 靜岡の鉄道歴史館.
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參考文獻[編輯]

関連文獻[編輯]


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