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那须藩

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那须藩
日语汉字那须藩
平假名なすはん
罗马拼音Nasu-han
所在地日本下野国那须郡福原
藩厅福原城日语福原城(福原阵屋)
大名家那须家日语那須氏
久松松平家日语久松氏

那须藩(日语:那須藩なすはん Nasu-han */?)是位于日本下野国那须郡福原(现栃木县大田原市福原日语佐久山町)的[1],创建于庆长15年6月19日(1610年8月7日)[2]宽永19年7月25日(1642年8月20日)一度废藩[3]正保5年闰正月20日(1648年3月14日)重新立藩[4]庆安2年2月28日(1649年4月9日)再度废藩[5]宽文4年12月8日(1665年1月23日)第三次立藩[6]延宝9年2月25日(1681年4月13日)废藩[7]。藩高峰期的石高是14,000石,藩厅福原城日语福原城(福原阵屋)[1][8]江户藩邸日语江戸藩邸在宽文9年(1669年)时位于汤岛天神下,宽文12年(1672年)时则在神田明神[9]

历史

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庆长15年6月19日(1610年8月7日),那须资晴日语那須資晴死去,其子那须资景日语那須資景继承其原本领有的6,000石,加上他自己本身领有的6,300石、同族高濑弥六的200石、大田原周防的200石、那须八郎的880石以及大田原弥次郎的440石,以总共约14,000石创立那须藩[2]。宽永元年(1624年),资景致仕[1],由其子那须资重日语那須資重 (23代当主)继位,然而资重却在宽永19年7月25日(1642年8月20日)先于其父死去,那须藩也因而废藩[3]。翌年3月15日(1643年5月3日),江户幕府将军德川家光念在资景年老,而且不希望那须家日语那須氏家名日语家名断绝,因此下赐5,000石予资景[10]

正保4年8月13日(1647年9月11日),信浓小诸藩松平宪良日语松平憲良在没有继嗣的情况下死去,虽然本应处以改易,但是幕府让其弟松平康尚日语松平康尚在正保5年闰正月20日(1648年3月14日)以减封日语減封至那须10,000石的形式继位[4]。翌年2月28日(1649年4月9日),康尚转封日语転封伊势长岛藩,那须藩因而再次废藩[5]。宽文4年12月8日(1665年1月23日),那须资景养子那须资弥日语那須資弥获加增5,000石,其原本领有的2,000日语俵 (単位)也改作为领地,加上在庆安5年2月28日(1652年4月6日)时从资景继承得来的5,000石,那须藩以12,000石再次立藩[6][11],《角川日本地名大辞典》指加增的理由有可能是由于资弥是增山正利日语増山正利德川家纲之母增山氏的亲弟[8]

延宝9年2月25日(1681年4月13日),资弥获加增8,000石至下野乌山藩,那须藩也再次废藩[7]贞享4年6月25日(1687年8月2日),资弥死去[12],由其外甥那须资德日语那須資徳弘前藩津轻信政日语津軽信政次子)继位[1]。同年10月14日(11月18日),资弥的庶子资宽通过伯父平野长政日语平野長政江户幕府主张自己的继承权,最终导致那须家被改易[1][13]元禄14年12月25日(1702年1月22日)[14],资德获下赐福原1,000石,宝永5年(1708年)后为交代寄合[1]

历任藩主

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那须藩历任藩主[1][4][8]
大名家 家格 藩主 石高 藩领
那须家日语那須氏 外样
无城日语城主大名
那须资景日语那須資景 14,000石→13,000石 下野国那须郡
那须资重日语那須資重 (23代当主) 
久松松平家日语久松氏 谱代 松平康尚日语松平康尚 10,000石
那须家 外样
无城
那须资弥日语那須資弥 12,000石 下野国那须郡、盐谷郡

藩领

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那须藩领如下,基于相给也有可能同时是皇室领日语皇室財産公家领日语公家領幕府领、其他藩领、旗本领或寺社领日语寺社領[8][15]

令制国 数目 藩领[注 1]
下野国 那须郡 69村 锅挂村、西沓挂村、沼野田和村、汤宫村、油井村、百村、山中新田、细竹村、东小屋村、东沓挂村、前弥六村、岩崎村、黑矶村、北弥六村、木曾畑中村、木绵畑村、鴫内村、三本木村、下大冢新田、下厚崎村、大原间村、龟山村、唐杉村、上厚崎村、上大冢新田、净法寺村、苅田村、汤津上村、赤濑村、佐良土村、片府田村、须佐木村、下蛭田村、下沼村、下泷村、鹰之巢村、泷野泽村、两乡村、八木泽村、山田村、福原村、蛭畑村、三色手村、云岩寺村(云岩寺村)、宇田川村、三斗内村、小船渡村、小种岛村、冈和久村、上蛭田村、上沼村、上泷村、成田村、和田村、伊王野村、青木若目田村、市野泽村、仓骨村、樱井村、奥泽村、鹿畑村、上奥泽村、练贯村、上川井村、大滑村、小乡野村、高畑村、船泽村
盐谷郡 2村 田野原村、下伊佐野村

参考资料

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注解

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  1. ^ 日本历史地名大系》根据收录于元和6年(1620年)的《那须资重书状》推测芳贺郡杉山村(现栃木县芳贺郡市贝町杉山日语小貝村)、下高根泽村(现栃木县芳贺郡芳贺町下高根泽日语南高根沢村)、芳志户村(现芳贺町芳志户日语南高根沢村)和高濑村(现栃木县那须乌山市高濑日语荒川村 (栃木県))为那须藩领[8][15]

参考

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  1. ^ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 大木茂. 那須藩. 木村础日语木村礎藤野保日语藤野保村上直日语村上直 (歴史学者) (编). 藩史大事典 関東編 2 POD版. 雄山阁日语雄山閣. 2002-04-15: 152–154. ISBN 4-639-10036-1 (日语). 
  2. ^ 2.0 2.1 下野那須邑主那須資晴卒す. 东京大学史料编纂所. [2022-11-08]. (原始内容存档于2022-11-08) (日语). 
  3. ^ 3.0 3.1 癸巳、福原邑主那須資重、卒す、嗣なし、幕府、其封一萬四千石を除く. 东京大学史料编纂所. [2022-11-08]. (原始内容存档于2022-11-08) (日语). 
  4. ^ 4.0 4.1 4.2 是より前、小諸城主松平憲良及ひ丹波亀山城主菅沼定昭卒す、嗣子なし、幕府、其封を收む、是日、憲良弟康尚に一万石を、定昭弟定実に七千石を賜ひ、並に其嗣となす. 东京大学史料编纂所. [2022-11-08]. (原始内容存档于2022-11-08) (日语). 
  5. ^ 5.0 5.1 丁巳、幕府、刈屋城主松平忠房の封を丹波に徙し、一萬五千石を加賜し四萬五千石餘と為し、福知山城に治せしめ、長島城主松平定政の封を三河に移し、一万三千石を加賜し二萬石と為し、刈屋城に治せしめ、那須邑主松平康尚の封を伊勢に徙し、長島城に治せしむ. 东京大学史料编纂所. [2022-11-08]. (原始内容存档于2022-11-08) (日语). 
  6. ^ 6.0 6.1 乙丑、幕府、小性那須資彌に田五千石を加賜し、旧俸二千苞を改めて釆地と為し、併せて一萬二千石以て諸侯に列す. 东京大学史料编纂所. [2022-11-08]. (原始内容存档于2022-11-08) (日语). 
  7. ^ 7.0 7.1 己酉、幕府、安中城主堀田正俊を古河に、烏山城主板倉重種を岩槻に、岩槻城主阿部正邦を宮津に、古河城主土井利益を鳥羽に、那須邑主那須資弥を烏山に徙し、正俊に五万石、重種に一万石、資弥に八千石を加賜す. 东京大学史料编纂所. [2022-11-08]. (原始内容存档于2022-11-08) (日语). 
  8. ^ 8.0 8.1 8.2 8.3 8.4 竹内理三日语竹内理三北原进日语北原進杉山博日语杉山博竹内诚日语竹内誠 (歴史学者)所理喜夫日语所理喜夫西垣晴次日语西垣晴次、大町雅美、小西四郎日语小西四郎长仓保日语長倉保峰岸纯夫日语峰岸純夫 (编). 那須藩. 角川日本地名大辞典 栃木県. 角川日本地名大辞典 9 日本文学Web図書館. 角川书店. 1984-12-08. ISBN 4-040-01090-6 (日语). 
    1. 鍋掛・西沓掛村・沼野田和・湯宮・油井・百村・山中新田・細竹・東小屋・東沓掛村・前弥六・岩崎村・黒磯・北弥六・木曽畑中・木綿畑・鴫内・三本木・下大塚新田・下厚崎・大原間・亀山・唐杉・上厚崎・上大塚新田. 那須塩原市. 
    2. 浄法寺・苅田村. 那珂川町. 
    3. 湯津上・赤瀬・佐良土・片府田・須佐木・下蛭田村・下沼村・下滝村・鷹ノ巣村・滝野沢村・両郷・八木沢村・山田村・福原・蛭畑・三色手村・雲岩寺・宇田川・三斗内村・小船渡・小種島村・岡和久村・上蛭田村・上沼村・上滝村・青木若目田村・市野沢・倉骨・桜井村・奥沢・上奥沢・練貫. 大田原市. 
    4. 成田・田野原・下伊佐野. 矢板市. 
    5. 和田村・大滑村・高畑村. さくら市. 
    6. 伊王野. 那須町. 
    7. 上川井・高瀬. 那須烏山市. 
    8. 杉山村. 市貝町. 
    9. 下高根沢・芳志戸. 芳賀町. 
  9. ^ 桥本博 (编). 大武鑑. 大武鉴日语武鑑 1 (大洽社). 1935-04-01 [2022-11-08]. 国立国会图书馆书志ID000000762385. (原始内容存档于2022-09-21) (日语). 
    1. 寬文九年. : 7 [2022-11-08]. (原始内容存档于2022-11-08). 
    2. 寬文十二年. : 11 [2022-11-08]. (原始内容存档于2022-09-21). 
  10. ^ 家光、福原邑主那須資重卒し、子なく除封せらるゝを以て、其父資景の老を養ふ可き者なきを憐み、特に五千石を給ふ. 东京大学史料编纂所. [2022-11-08]. (原始内容存档于2022-11-08) (日语). 
  11. ^ 那須資景、致仕す、幕府、請を允して、小性増山高春を以て其嗣となし、高春の禄二千石を合せて七千石と為す、. 东京大学史料编纂所. [2022-11-08]. (原始内容存档于2022-11-08) (日语). 
  12. ^ 辛未、烏山城主那須資弥、卒す、養子資徳嗣く. 东京大学史料编纂所. [2022-11-08]. (原始内容存档于2022-11-08) (日语). 
  13. ^ 己未、是より先、烏山城主那須資弥、弘前城主津軽信政の子を養ひ資徳と名け、以て家を嗣かしむ、庶子資豊、己の立たさるを憤り、幕府に訴ふ、是に至り幕府、其封を収め、資徳及ひ資豊を禁錮し、信政に閉門を命す. 东京大学史料编纂所. [2022-11-08]. (原始内容存档于2022-11-08) (日语). 
  14. ^ 清田默. 徳川加封録巻之三. 竹内理三日语竹内理三丰田武日语豊田武儿玉幸多日语児玉幸多小西四郎日语小西四郎、藤野保 (编). 徳川加除封録. 日本史料选书日语日本史料選書 8. 近藤出版社. 1972-03-10: 173–174. NCID BN0168746X (日语). 
  15. ^ 15.0 15.1 宝月圭吾日语宝月圭吾、柿沼薰、河内八郎、新川武纪、德田浩淳、中里鱼彦、日向野德久、前泽辉政、渡边龙瑞 (编). 栃木県の地名. 日本历史地名大系 9 JapanKnowledge. 平凡社. 1988-08-25. ISBN 4-582-49009-3 (日语). 
    1. 市野沢村・岩崎村・宇田川村・青木若目田村・奥沢村・鹿畑村・上奥沢村・上沼村・倉骨村・小種島村・桜井村・滝野沢村・中居八木沢村・練貫村・福原村・三斗内鷹巣村. 大田原市. 
    2. 岩崎村・大原間村・上厚崎村・亀山村・唐杉村・北弥六村・木綿畑村・黒磯村・三本木村・下厚崎村・鍋掛村・西沓掛村・沼野田和村・東沓掛村・東小屋村・細竹村・前弥六村・百村・油井村・湯宮村. 黒磯市. 
    3. 那須郡. 
      1. 苅田村・浄法寺村. 小川町. 
      2. 上滝村・下滝村・雲巌寺村・須佐木村・山田村. 黒羽町. 
      3. 高瀬村・上川井村. 南那須町. 
      4. 上蛭田村・佐良土村・下蛭田村・蛭畑村・湯津上村・新宿村・片府田村・小船渡村. 湯津上村. 
    4. 芳賀郡. 
      1. 下高根沢村・芳志戸村. 芳賀町. 
      2. 杉山村. 市貝町. 
    5. 大滑村・小郷野村・高畑村・船沢村. 喜連川町. 

外部链接

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